盈月のまにまに
前の日に一つでもいい事があった次の日の朝というのは、思いのほか清々しかった。
テレビは、天気予報を告げている。今日は一日晴れ。
そのほかに、都内の駅で線路に落ちた女性が間一髪で助かったという事を報道している。
なんでもメディアの取材によるとその電車は誤作動でブレーキが利かず、停車した次の駅でも人が線路に転落していたらしい。
電車が止まらなければ、二人の死傷者が出る惨事になっていたそうだ。
変なこともあるものだな、と朝食のトーストを齧りながら何気なく思った。
けれど妖怪が見える…という事以上に変なことなどないか。
誰が聞いても妙な話だが、その妙な話を共有できる存在が居る。
それだけで俺はいつもよりも登校する足取りが軽い。
「よう」
「おはよ、佐竹」
時刻は7時30分。高校生にもなるとクラスメイトたちの登校時間がぎりぎりまで遅くなる。
それを見計らって俺はなるべく早く教室に着き、誰とも関わらないようにしてきた。
ホームルームが始まるまでは読書や仮眠をしてやり過ごしているのだが、思い返してみるといつもこの早い時間から佐竹はいる。
窓の縁に座って、ずっと空を眺めてる。今日もそうだ、窓の縁で胡坐を掻き、頬杖をついてずっと空を見ていた。
今朝は俺に気が付くと、佐竹は俺を見て挨拶をした。
特別微笑むわけでもなく、不機嫌な表情をしているわけでもなく、ただ真顔で。
昨日声を掛けられていたのを故意的に無視してしまったので、今朝の挨拶も無視するわけにはいかなくて。
それに今日の俺はとてつもなく機嫌が良いので、仕方なく、返事をした。
佐竹は返事をした俺に驚いたような顔をする。なんだよ、そっちから挨拶して来たくせに。
「今日は機嫌がよさそうだな」
「別にそんなことないけど」
なんでわかるんだ…と呆れ、溜め息をひとつこぼしながら席に着く。
スクールバッグは机のサイドに取り付けてあるフックにかける。入っているのは、財布と携帯と筆記用具くらいで重くはないのでちょうどいい。
視線だけで周囲を見渡し、人間らしからぬ存在が見当たらないことに安堵する。
驚く事に、四六時中見ていた妖怪を今日はまだ一度も見ていないのだ。そりゃあ機嫌が良くもなるに決まってる。
「なぁ、昨日なんだけどよ」
「…ごめん。昨日の帰り、俺に声かけたよね」
「…おう」
「昨日は急いで帰らないといけなくてさ、話してる時間なかったんだ」
「そうか」
「ごめんね」
「いや、急いでたんならいい」
しらばっくれるのも良心が痛んだので、理由は適当にはぐらかして謝罪した。
相手にとって理由がどうであれ、謝罪があるのとないのでは大分違うだろうと思って。
どのみち今度は適当にはぐらかした理由に突っ込んでくるかもしれないと予想していたが、それはそれでちゃんと答える言葉を考えている。
いつ聞かれるのだろうかと少し、落ち着かない気分でいたが佐竹はそれきり黙ってしまった。
視線をやると佐竹はまた空を見ていた。何か悩んでいるようでも、物思いに耽っているわけでもなさそうにただ無表情だった。
きっと俺は、クラスメイトから何を考えているのか良く分からない暗い奴…みたいな感じに思われているんだろう。
でも俺から言わせてもらえば、自分以外の誰かの思考を分かる奴なんて存在するのだろうか。
親族ですら分からない時の方が多いのに、血の繋がりさえない他人の考えていることをわかることはとても難しい。
そして、これは佐竹にも言える。俺はコイツが何を考えているのか分からない。そもそも、考えているのかいないのかすら分からない。
昨日まで、佐竹とはあまり関わりを持ちたくないと思っていた気持ちが嘘のように消えている。
少し、興味を持ったのだ。コイツは何を考えているんだろう。どうして毎朝、ずっと空を眺めているんだろう。
どうして俺のことを名前で呼んでいるんだろう…とか。聞いてみたいことがたくさんあった。
「佐竹」
「ん?」
「今日は一日晴れだって」
「そうか」
「空、満足するまで見れるよ」
「…そうだな」
一番聞いてみたいことは、すぐには聞けない。それほど俺は純粋じゃないから。
人生は長いし、時間もたくさんあるから。だから少しずつ、話せるようになればいい。
そうは思ったけれど、この調子じゃ相当先は長そうだな。
あんまり気にはしていなかったけれど、何気なく見てきた日常を思い出すとこの佐竹という男はあまり話す方じゃない。
なら、仕方ないか。最低限の会話が出来ればそれでいい。
俺にとっても、佐竹にとっても必要だと思うことを話せるならこれ以上求めることは何もなかった。
「…ちげー」
「え、なにが」
「ちげーんだよ、暁」
「え、いや、だから何が…」
「佐竹おっはよー!」
突然、教室に複数人のクラスメイトが入ってきた。そのうちの一人、葉月 晴久(ハヅキ ハルヒサ)が佐竹に突進した。
結構な勢いだったが、佐竹は動じなかった。というよりも闖入者に驚いて固まっていたと言った方が正しい。
それきり唐突な言葉を呟いた彼が、その先を話すことは無くなってしまった。
葉月は俺と佐竹が顔を合わせているのを見て、不思議そうな顔をする。
「佐竹、落合と話してたの?」
「べつに」
「何それ隠し事―?さっちゃんとはるちんの仲じゃーん、教えてよー!」
「気持ち悪ぃな」
佐竹に執拗に絡む葉月は、クラスに確実に一人はいるムードメーカー(馬鹿)だ。
そのバカさ故か、どれだけ佐竹が強面だろうと無愛想だろうと自分から突っ込んでいく奴。
先ほどまで無表情だった顔を一瞬にして不機嫌な顔にしてしまう天才ともいえる。
どれだけ執拗に絡まれようとも、佐竹は俺と話していたことを話そうとしなかった。
内容だけではなく、話していたという事実まで佐竹は隠していた。
俺と関わっていたという事を、知られたくないんだろう。
「なー、話してたんだろー」
「話してねぇ」
「落合!何話してたんだ?」
「…話してないよ、たまたま目があっただけ」
「あき……、落合…」
「ふーん?」
「……分かったらさっさと離れろよ、うぜぇ」
「はいはい。さっちゃんはおっかないなー」
「野郎…」
「ごめんってー」
仕方がないので佐竹に話を合わせることにする。
佐竹が眉を潜めてこちらを見ていたが、俺は見なかったことにして机にしまっていた本を取り出す。
誰も間違っちゃいない。佐竹は正しい。俺なんかより、他人なんかより自分を大切にすべきだ。
この時読んだ本は名作と言われているが、正直あまり面白くなかった。
* * * *
窓辺の方へと視線をやれば、太陽は一番高いところまで昇っていた。
ふと視線を下ろすと、窓側の席に座る佐竹がまた青空を見つめている。アイツ、そんなに空が好きなのか。
授業終了のチャイムが鳴り響く。
昼休みに入り、俺は鞄から携帯と財布を取り出して教室へ出た。
基本的に昼は購買のパンで済ませている。小食なのでその方が安く済むのだ。
たまに母親がお弁当を作ってくれるが、偏食なので自分で作った方が良い時ばかり。
だから弁当は自分で作ることにしているし、面倒だったらこうして買って済ませる。
教室から購買へと移動するといつもは人だかりが出来ているのだが、意外にも今日だけは空いていた。
苦になる人混みがないのは幸いだ。さっさと済ませて空き教室へ行こうとしたときだった。
「落合」
「…佐竹」
軽く肩を掴まれて振り返った先に、佐竹が居た。
懲りないな、つるんでるって思われたくないなら自分から声を掛けなきゃ良いのに。
呆れた眼差しを向けるも、佐竹は無表情のまま視線を逸らして購買のメニューを見る。
「何にすんだ」
「は?」
「何を食うのか聞いてんだ」
「…クロワッサン」
「それだけか?」
「そうだけど」
「飲み物は」
「……抹茶オレ」
「……」
「なんだよ…」
「…そこで待ってろ」
買おうと思っていたメニューを口にすると、佐竹は半分呆れたような顔をして、なにか言いたそうだった。
甘いものばっかりだって言いたいんだろうが、購買のクロワッサンはコンビニのより美味しい。
あと、抹茶オレのなにがいけないんだっていうんだ。
佐竹の言われるがままに大人しく待つことにしたが、もしかして買ってこようとしてるのか?
いやいやいや、なんでそんなことするんだよ。奢ってもらう義理はないのに。
* * * *
結局、いつも昼ご飯を食べる教室に佐竹と来てしまった。しかも、佐竹の奢り。
抵抗むなしく、体格差もある所為か止めることも出来無かったんだ。
なんで奢られたんだろうか、ほんとコイツは口数が少ないから余計に何考えてるのか分からない。
もくもくと自分の分のパンを食べ始めた佐竹とは裏腹に、俺はまだ目の前にあるお目当てのクロワッサンと抹茶オレに手を付けられないでいる。
腹は多少なりとも減ってはいるが、別に食べないなら食べないでなんとかなる。
奢られた意図を理解できないまま、俺は膠着状態だった。
「食わないのか」
「食えないだろ」
「なんで」
「なんでって…なら聞くけど、なんで奢ってくれたんだ?」
「……」
しれっとした態度で言う佐竹を少し睨みながら、理由を聞いてみる。
だが佐竹は、暫く固まったあとまた黙々とパンを食べ始めた。
言わないのかよ。…というか言えないような理由なのか?
考えども判明せず、かといって食べるわけにもいかず。佐竹が理由を言うまで食べないことにする。
…が、意外と早くその理由は明かされたのだ。
「今朝、悪かったな」
「…何の話?」
「バカに巻き込ませて」
「…バカ、ああ…葉月のこと」
「バカ」という単語だけでわかる葉月も本当にどうにかした方がいいと思うが、問題はそこではない。
話を合わせてくれて悪い。という佐竹なりの謝罪の気持ちなんだろう。
だったら最初からそう言えばいいのに、不器用な奴。
「お前、嫌だろ。あーゆーのと関わるの」
「は?」
「俺は別に、バカを罵ってりゃ済むけどな」
「……」
「バカがうつりそうだって、顔してる」
「え、誰が」
「暁が」
「そんな顔をしてるつもりはないけど」
「無意識なら気を付けた方が良いぞ。お前、案外顔に出るからな」
佐竹の言葉を聞いて衝撃的だった事が三つ。
一つ、俺がああいう類の奴が苦手だってことを何で知ってるかってこと。
二つ、そんなに態度に出しているつもりはなかったのにどうやら露骨に出ていたらしい。
三つ、というか態度とかそんなことを今まで誰にも言われたことなかったのに、すぐ分かるくらい俺はそんなに分かりやすいのだろうか。
それとも佐竹は割と俺を見ているという事なのか。
どう考えてもおかしい。なんで俺は佐竹のことを良く知らないのに、相手は俺のことを良く知っているんだ。
もしや、コイツってマジで危ない奴なのか?
理由を聞いて、納得したら食べるはずだったクロワッサンも食べる気が失せてしまった。
顔面蒼白させながら黙り込む俺を見て佐竹は口の中の物を飲み込むと小さく笑う。
「はは、お前…マジで覚えてないんだな」
「え、え…何のこと」
「暁と俺は、小学校の頃から学校が同じなんだぜ」
更に衝撃的な事実が発覚。
コイツ、笑ったりするんだな。
20141126~