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「ほんと、今日はついてない…」

「ふふ、何かあったんですか」

 

思わず零れた本音に男が笑い、歩きながらこちらに視線を向けた。

そもそもこの状態すらついてないと思うのはアンタの所為だぞ、なんて思うが口には出来ない。

そんなことを言ったら道案内してもらえなくなるかもしれないのだ。

不利なこの状況にすら腹が立って、言葉も返す気になれなかった。

こんな状況に陥ってしまった自分に腹が立って、頭が痛くなり思わず顔を伏せた瞬間だった。

 

「……この森に逃げ込んだのは正解でしたね」

「は?」

 

何の前触れもなく、そう告げられて息が詰まりそうになった。

どうしてこの男は、俺がこの森に逃げ込んだことを知っているのだろうか。

歩みを止め、怪訝な表情で男を見つめると男も歩くのをやめてこちらへ振り返った。

 

「逃げていたんでしょう、狐から」

「……」

 

男の言っていることが分からなかった。

いや、何を言っているのか、何を意味しているのか理解はしているがどうして彼が知っているのかが分からなかったのだ。

驚きすぎて言葉も出てきやしない。くそ、なにか、適当な言い訳を…この会話の流れから逃げられる言葉を。

地雷は踏む前に回避するのが普通だろう。

黙り込んで脳内をぐるぐると掻き回して探してみても、言葉は見つからなかった。

そもそも、考えている間に過ぎた時間が返事をするにはあまりにも長かった。

だから俺のこの沈黙は、ある一種の肯定にしかすぎない。

 

口内に溜まった唾すら飲み込めないほど、俺には重苦しい時間。

どれだけ沈黙が続こうと、問い返すことも問いただすこともしない相手が妙に気になった。

伏せていた顔を少しずつ上げ、相手の顔を見る。

 

男は、そう…ただ微笑みながら俺をじっと見つめていた。

その優しい笑顔に、心が絆されそうになる。って絆されそうになってどうする。

俺はこういう会話の流れを毎回、別の話でちゃんと誤魔化してきたじゃないか。

上手く誤魔化せていたかどうかはさておき、今朝だってなんとか回避したんだ…それなのに。

 

……というかだ、なんでこの男は知っているんだ。

いやいや、俺が何かから逃げていたというのを知っていてもおかしくはないはず。

実際、俺はこの辺鄙なところまで一人で爆走してた。

だからこの男は俺が走っていたことを知っていても可笑しくはない。

問題は、俺が「狐」から逃げていたことを知っているということ。

 

「…まさか」

「ようやく、気付いてくれましたか」

「アンタって、妖怪が見えるの」

「ええ、見えます」

「…あ、いやさ…そんな当然のことのように言われても」

 

ふふと笑みを深めて、男はサラリと答える。

俺にはその言葉を言える相手が居なかった。いや、相手がいたのかもしれないが俺には言えなかった。

妖怪が見えることが、妖怪が見える自分が恥ずかしかった。

俺と同じく妖怪が見える相手の存在が俺にとってどれだけ救われることか、きっとまだ俺自身もあまり分かっていなくて。

突然、俺と同じ世界を見る相手がいると分かった事で、塞ぎ込んでいたような気持ちが軽くなるような錯覚を覚える。

 

「ああ、よかった…俺だけじゃなかったんだ」

「もちろんです。でも今は見える人の方が少ないですけれどね」

「…だよね」

「昔はもう少し居たような気がしますが」

「昔って、アンタそんなに年寄りじゃないじゃん」

「古い参考書を読んだ知識です」

「なるほどね」

 

どうやら俺はかなりの距離を走ってきてしまったらしく、俺と同じく妖怪が見えるという男と雑談をする余裕があるほど。

けれどこの時間は、俺にとっては無駄ではなかった。

俺と同じ世界を見ている人と、話が共有できるのは嬉しい。話せる相手が居なかったから。

 

街灯の一つもない野道を月明かりだけで歩く彼は、どうやら本当にこの山に住んでいるらしい。

彼が居て良かった。俺だけではこの暗い森を歩いて家まで帰ることは出来なかっただろう。

少し黙ると、森は時折吹く風に揺られてざわざわと動く。

それは決して恐ろしいものではなく、月明かりの所為かもっと神秘的な物のような気がする。

耳を澄ませば、虫と鳥が鳴く声も聞こえる。

この街のこの山は、辺鄙なところで誰も入ろうとはしない。街灯がないので余計だろう。

世界で一番治安の良い国だと言われていても、薄暗い夜には危険が付き物。

きっと、時が進むにつれて誰も近寄らなくなってしまったんだ。そう思うと、少しだけさみしい気持ちになった。こんなに良い所なのに。

…変だな。こんな風景に思いを馳せるような柄じゃないのに。

 

「…ぷっ」

「なにか、おかしなことでも」

「いや、なんか柄じゃないこと考えてたなーって」

「へぇ、教えてください」

「やだよ、恥ずかしい」

「初対面の私には、君の柄なんて分かりませんよ」

「そりゃそーだけど…」

「何を考えていたんですか?」

「アンタがこの山に住んでるのも、なんかわかるなーって」

「ふふ、いいところでしょう」

 

振り向きざまに微笑む彼は、月明かりに照らされて淡い光を放っているよう。

真っ黒な髪も風に揺られると時折、きらきらと光る。

彼の背後に広がる森の闇と月明かりに照らされる彼と…明暗が純粋に綺麗だと思った。

絵画とか写真を見ているようだった。

 

「どうしました?」

「…なんでもない」

 

バカみたいだ、同性に対して綺麗だと思うなんて。俺はホモじゃないぞ。

今日の俺は俺らしくないなんて思いながら、彼から顔を背ける。

 

「にしても、今日の狐はタチ悪かったな」

「遠目から見ても、幼い狐でしたから。きっと自分が見えると知り、珍しさからか遊んでいるつもりだったのでしょう」

「俺は妖怪の遊び相手じゃないっつーの」

「狐は悪戯好きですから、悪気があったわけじゃないと思いますが」

「あ」

「どうしました?」

「そういやさ、なんでアンタ『この森に逃げて正解だ』って言ったの」

 

先ほど、妖怪が見えるという驚きのあまり咄嗟に気付けなかったが気にはなっていたことを思い出した。

ついでとばかりに聞いてみると彼は今更だなとでも言いたそうな顔で俺を見る。

なんだよ、その後の衝撃が凄まじかったから忘れてただけだろ。阿呆を見るような目をするな。

 

「私は、この山の頂に住んでいるんですけどね…近くにお社があるんです」

「社?」

「ええ、なんでもその社はこの土地の守り神である天狐が住んでいるんだとか」

「だから格下の狐は近づかないし安全だってこと?」

「そういうことです」

 

なるほどな。ようするに天狐が守り神って守ってくれるんだろ。

ならこの山に逃げてくれば俺は妖怪から逃げられるってことか、良いことを教えてもらったな。

話をしているといつの間にか視界は開け、野道から砂利道、そしてアスファルトの道へと続く山の入り口まで来ていた。

ああ、もうそんなに経ったのかなんて思い、ここまで無事に道案内をしてくれた彼へ向き直る。

 

「ちゃんと道案内してくれてたんだな」

「失礼ですね。君を取って食べたりしたって私に良いことはありませんからね」

「疑ってごめんね。ほんとありがと」

「どういたしまして、気をつけてくださいね」

 

そうして辺鄙な山で会った真っ黒な男に別れを告げる。

携帯を取り出して時間を確認すると時刻は8時に差し掛かっていた。寒さも増してきたし、早く家に帰って風呂に入りたい。

砂利道に一歩踏み出し、ふと思い出したことがあって再び彼へと振り返る。

家路へ急いでいたと思っていた男が不思議そうな顔をしてこちらを見る。

すっかり忘れていたことが一つ。

 

「俺さ、落合暁って言うんだ。アンタの名前は?」

「…名前を聞いてどうするんです?」

「…別に悪いことに使うわけじゃないよ。また来ると思うから、名前を聞いておこうと思って」

「そうでしたか」

 

訝しげに俺を見る彼の表情が、一瞬だけ暗い顔をした気がする。

次いだ俺の言葉を聞いてすぐに微笑みへと戻る。気のせいだろうか。

 

「私は、盈月といいます」

「エイゲツ?」

「はい」

「分かった、エイゲツね。じゃ、またね!」

 

踵を返し、もう一度彼に振り返って手を振ると驚いたような顔をしてから小さく手を振っていた。

 

砂利道を歩き、すぐにアスファルトの道へと出ると寒さに身を抱いて足早に歩く。

なんというか散々な一日ではあったけれど、嫌なことばっかりじゃなかったな。

俺と同じく、妖怪が見えるというエイゲツと出会えたのは本当に良かったと思う。

これで色んな話が出来るといいな。俺が今まで話したくても話せなかったことを、彼ならちゃんと信じて聞いてくれるから。

 

ただ、別れ際に一瞬だけ見せた暗い顔が気になった。

その時はただの見間違いとか、気のせいだろうなんて思っていたが、今になって気になり始めてしまった。

これはあくまでも俺の独断と偏見を交えた推測だが…辺鄙な山に住んでいるからか、あんまり人と関わらないのだろう。

ご近所さんもいないだろうしな。

だから名前なんて覚えられても、誰も来ないのだから意味はないなんて、思ったのかな。

暗いな。俺と居る間、ずっと明るく微笑んでいた彼に限ってそんな暗いことは考えないか。

 

なんにしても、俺にとっていい避難所が出来た。

そう、この時はこれくらいにしか思っていなかったんだ。

 

 

 

20141125~

 

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